大判例

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秋田地方裁判所 昭和34年(むの1)218号 判決

被告人 紀国栄 外二名

決  定

(被告人氏名略)

右の者等に対する暴力行為等処罰に関する法律違反被告事件につき昭和三十四年八月四日秋田地方裁判所裁判官がした勾留取消請求却下決定に対し被告人等の弁護人から取消の申立があつたので、当裁判所は次のとおり決定する。

主文

本件申立を棄却する

理由

本件申立の趣旨及び理由は別紙記載のとおりである。

所論に鑑み記録を精査し原決定の当否を審究するに、被告人等に対する本件勾留の理由は刑事訴訟法第六十条第一項第二号の事由によるものであるところ、一件記録に徴すれば原決定が適切に判示しておる如く勾留の基礎となつた事実については被告人等が右罪を犯したことを疑うに足る十分な理由があり、且つ被告人等及び本件現場に居合せた大多数のものが刑事々件に際して関係文書を整理し、或は捜査官による任意出頭の要求に対しては拒否すべきことを指導し若くはかゝる指導に同調して大多数のものが捜査官の捜査に極めて非協力的である事実が認められるばかりでなく、右事実は被告人等がいずれも裁判官の勾留尋問若くは捜査官の取調に対し黙秘し或は署名押印を拒否している事態等と併せ考察すれば被告人等が現在尚罪証を湮滅すると疑うに足りる相当な理由があることを首肯するに足る。

なるほど黙秘権の行使は憲法上保障された被告人等の基本的権利であることは洵に所論のとおりであるが、原決定は黙秘権を行使するが故に証拠湮滅の惧れありと断じておるわけではなく、被告人等を含む大多数の組合員等が事前或は事後において組織的に証拠の湮滅を計ると推測せしめるに足る事情の存することは被告人等の黙秘している事態を照応して現在尚罪証を湮滅すると疑うに足ることを判示しておるのであつて、右認定に誤のないことは前段説示のとおりである。現場に居合せた大多数の組合員が全部被疑者とされる可能性があるからといつて違法の事態を組織的に隠蔽することを許容することはできない。所論は被告事件の性質、本件に対する捜査官営林局側の態度、本件に対する組合側の態度の各項において縷々主張するけれども畢竟するところ独自の見解に過ぎないのであつて採用の限りでない。本件暴力事犯を偶発的軽微な事案となす弁護人の主張は民主社会にあつて暴力を是認するが如き結果を招き軽々に左袒するをえない。その他記録を精査するも勾留権の濫用等原決定を違法とすべき何等の事由を発見することはできない。論旨は理由がない。

よつて刑事訴訟法第四百二十六条第一項により主文のとおり決定する。

(裁判官 三浦克己 片桐英才 浜秀和)

準抗告申立書

(被告人・弁護人氏名略)

右の三名に対する暴力行為等処罰に関する法律違反被告事件の勾留につき次のとおり準抗告する。

申立の趣旨

弁護人が右の被告人三名の勾留を取消すよう請求したことに対し秋田地方裁判所裁判官高木典雄が昭和三十四年八月四日その請求を却下した決定を取消し、被告人ら三名の勾留を取消す。

という裁判を求める。

申立の理由

一、被告事件の性質

本件がまつたくの偶発事件であつたことはあきらかである。本件がおこつた雪田沢事業所では本年五月、六月分の賃金が支払らわれていなかつた。この賃金支払形態についてこれより前から労資の間に紛争があつたのであるが、同じ合川営林署管内でも他の事業所においては、当局の一方的措置とはいえ功程単価が定められ現実に賃金支払の提供がなされている。しかし、雪田沢事業所では、賃金支払のために、現金の提供がなされないのは勿論、そのための準備すらしなかつたのである。

起訴事実がおこるまえには作業員らの要請と横尾幸八の承諾があつて、約四時間にわたつて横尾と作業員らの間に交渉があつたのである。もし被疑事実があつたとしても、この長い間の交渉をしそのうえで暴力をふるうことが企てられていたなどということが考えられるだろうか。

賃金未払は作業員にとつては、生死の問題である。金があるのに支払をせず、それを労資紛争の手段につかうというのは本来犯罪的行為である。生死の問題について誠意ある回答をしないのに対し憤激するのは人間としてまた当然である。これを単なる金銭取立の問題と考えることは、形式的理解にはしることも甚しい。

本件について暴力的行為があつたかどうかは起訴の現段階においては公判廷においてあきらかにされるべきことである。しかし本件が始めから意図されておこつたものでないことは被害者と称されている者の供述からも読みとられるに相違ないと思う。

二、本件に対する捜査官、営林局側の態度

本件がおこるまえから両者は厳密な連絡をとり警察力の介入の機会をねらつていた。たまたま本件がおこると、好機とばかりに全林野労働組合秋田地方本部に弾圧をかけて来た。それは捜査官の公式の書類自体にあらわれているところである。

まず、逮捕状と勾留状の被疑事実をよくみていただきたい。これは捜査官側それらを請求するにさいして書いた事実そのままであろう。

第一に逮捕状には日給制切替要求をとおすためにやつた事件であるかのように書いてある。勾留状では未払賃金の支払を要求したことになつている。

第二に逮捕状では被告人ら三名が共謀してこの事件をおこしたといつているが、勾留状では共謀は消えている。

第三に暴行の程度がちがう。

なぜこんなことになつたのか。この二つの令状の間に捜査官が新しい資料をにぎつたことはないはずである。それにもかかわらずこのような相違がでたのは意図するところがあつたのである。第一の目的は、組合側の書類を押収するためである。勾留状記載の事実では全林野労働組合秋田地方本部合川分会拠点斗争に関する一切の書類に対する捜査令状を裁判官からえられるはずがない。その令状をうるため、しつていながらあえて逮捕状には被疑事実をかえてかいたのである。第二には全林野労組の日給制要求のたたかいが不当な手段をもつてたたかわれているという印象を一般大衆にあたえるために誇張したのである。現に捜査当局から材料を得たと思われるが六月二十一日の「産経新聞」は逮捕状にすらない暴行傷害の事実を報道している。逮捕の報道が勾留の報道より一般の耳目をひくことはあきらかである。それには計算された意図があつたのである。こうして全林野労組と一般大衆の離間をねらつているのである。この企ては秋田地裁大館支部における勾留理由開示公判であきらかにされた。

そこで起訴状では再転して更にあたらしい事実がかきくわえられ、さも事件が重大であるかのごとくよそわれたのである。

通常被害者は事実を誇張していうものである。

まして、本件のごとく始めから警察力の介入をねらつていた営林局当局者の供述が誇大にいわれることは火を見るよりあきらかなことである。これと捜査官の予断、否、共働がくわわるときにいかなる調書が出来上るかを思えば肌に粟が生ずる思いがする。

三、本件に対する組合側の態度

資本家側と官憲が結びつくことにより労働運動が抑圧された事実は世界の労働運動史上かぞえるいとまがないくらいである。この経験にてらし労働者が不当な介入にそなえることは事理の当然である。そもそも国家権力が悪をなさないという命題は成立しない。権力が悪をなさないとすれば、人類はこれまで幾多流血の革命を経なくとも、基本的人権を享受することが出来たはずである。また一たび得られた人権がなんらの努力をすることなく維持されるとはとうてい考えられない。このことは、日本国憲法第九十七条も認めている真理である。

営林局側の文書、言動から捜査官憲を今回の労資の争いに介入させ、それによつて争いを当局に有利に解決しようと企てていたことはあらかじめわかつていたことであり、捜査官憲が全林野労組自体に攻撃を加えようとしている動きは以前からあつた。労働者としては捜査官憲の不当な介入に対して自らの組織と運動をまもろうとすることは正当な権利にもとずく行為である。

はたして、今回の逮捕において当局及び官憲の不当な意図はあきらかになつた。事件そのものよりも組合の組織の破壊をねらつたことは上でのべたとおりであり、別の準抗告で押収処分の取消を求めている理由中でものべているとおりである。

このようにある企てをもつた官憲に対して真相をあきらかにしたところで無意味である。かえつて歪曲とねつ造の材料にされるのみである。被告人らとしてはこれに対して憲法によつて認められた権利である黙秘権の行使によつて戦う以外には方法がない。そして労働者が正しかつたか、捜査官憲が正しかつたかは、公衆の面前でひらかれる公判廷においてあきらかにされるであろう。

本件現場にいた作業員としてもまつたく被告人らと同様である。自分達の組織に対して加えられた不正な攻撃に対してこれに協力することはとうてい考えられない。しかもこの人達も起訴状記載の事実によれば被疑者となりうる立場にあり、それが捜査官憲の任意出頭の要請に応じないことは、いわば潜在的な黙秘権の行使である。捜査官がその協力を得られないのはいきなり三名を逮捕し、組合の重要な書類をうばう等まつたくその捜査権の不当な行使によるものといわなければならない。

四、本件の証拠

本件は偶発事件であつて、起訴事実からいつて何ら物証というべきものの存在しないことはあきらかである。

結局証拠となりうるものは、現場にいた関係者の供述のみである。それらの供述を綜合することより本件の真相があきらかになるであろう。

検察官は被害者といわれる横尾幸八、佐藤良辰の両名について詳細に事情を聴取しているはずである。この二人は営林局当局者であつて被告人側としてはその事情をたずねることすら困難であり、ましてこれに対して統制力を加えるなどとはとうてい出来ない相談である。

また、そのほか被告人側で調査したところによれば検察官は伊藤与一郎、鈴木由太郎、福田金治、小笠原忠一、工藤重太郎の取調をし供述を得ている。

これらによつて検察官の手許に十分な証拠があらわれていることはあきらかであり、これ以上屋上層をかさねることは無意味である。

この取調にあたつている者に対しては数名の警察官とともに夜その家庭にあがりこみ、逮捕をほのめかしながら真夜一時、二時まで長時間にわたつて取調をしている。ある者に対しては、その家庭内の不幸な事件について事情をききたいといつて警察署によびよせ、その件の取調はまつたく怪物で、本件について取調べすることを予めことわりもせず、八、九時間のながきにわたつて取調をしている。家庭内の不幸な事件で衝撃をうけ、捜査官憲にある程度生殺与奪の権をにぎられているものを詐欺にまがう方法で長時間にわたつてしらべなければならないほど本件は重大な事件であろうか。検察官はその意図する政治的な意味に目がくらみ、人間の道にはずれた捜査方法をあえてとるにいたつたのである。

五、黙秘権の行使

被疑者あるいは被告人が官憲の取調に対して黙秘することは一個の事実行為である。黙秘する者に対して強制力を加えても黙秘する以上どうすることも出来ない。旧刑事訴訟法も被疑者に供述する義務をとくに課していなかつたし、拷問も法律上は禁止されていた。しかしいわゆる「改革された刑事訴訟法」として被疑者が黙秘した場合は、それに不利な事実を推定し、量刑を重くし、勾留を長びかせる等の扱いをすることが肯定されていた。これは一種のお白洲裁判である。

しかしながら日本国憲法第三十八条第一項は黙秘することが基本的人権の一つであることをはつきりと宣言している。黙秘することは、日本国憲法のもとにおいては一個の権利である。この思想はイギリスの人民の抵抗に端を発し、アメリカ独立戦争後の諸州の権利宣言によつて確立されたものである。日本国憲法は「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」としてこれを継受したものである。したがつて旧憲法下の黙秘とその性質はまつたくことなるものである。憲法上の黙秘権を行使したからといつてこれに対してより以上の不利益を課してはならないところにその本質がある。元来罪を犯した者について黙秘権を認めること自体は社会として早急に処罰する必要があるという要請と本来矛盾するものである。それにもかかわらず、なお黙秘権を認めるということは、国家の権力の濫用に対して市民の自由を保障することのほうがより大切であるからである。国家は被告人の供述以外の証拠によりその責任を追及すべきことが要請され、その方が結局において公正な刑事責任の追及がなしうるという理想があるのである。

黙秘権はそもそも国家権力に対抗することにこそ意味があるその歴史的な根拠からしてそうなのである。本来国家権力と矛盾する存在であるものを、国家があえて認めていることからして、その濫用という概念はありえないのである。国家はこれの行使に対して一切の不利益な取扱をしてはならないのである。勾留を延長する理由になりえないのは、勿論、罪証隠滅のおそれの判断の根拠とすることも許されない。若しそうでないとすれば、その意に反する供述を国家が間接的に強制することになり、結局黙秘権自体を否認することになるからである。

六、任意出頭

いわゆる任意出頭は捜査官憲の市民に対する捜査の協力要請である。その本質において一私人がその隣人に協力をたのむのと何ら相違はない。ただ相違があるとすれば捜査当局は公共の利益のための機関として常人よりもよき協力が期待出来るというにすぎない。公共の利益のためという前提がなくなつたならば、その協力がえられないのは当然である。それを国家機関であるがゆえに市民に協力するのが当然であると考えるならば思い上りも甚しい。

捜査官憲は市民が捜査に協力しなかつた場合その権力の行使に誤りがなかつたか否か反省すべきである。今回の逮捕押収が不当であることはすでにのべたとおりである。

このような不当な権力の行使について組合員が抵抗し協力しないことは当然である。基本的人権は第一に国家権力に対する市民の権利であり、抵抗の権利である。その前提には権力に対する不信があることは、その成立の歴史が示すとおりである。

不当な権力の行使に対して市民が協力しないことはその自由権に属することである。基本的人権の番人である裁判官がこれをもつてただちに罪証隠滅とむすびつけるのはまことに遺憾である。罪証隠滅のおそれというのには単なる不協力以外に他になんらかの積極的な行為が必要なのである。

七、組合の指導

労働組合は大衆の組織であつて、民主的運営によらなければ、その団結をかためることは出来ない。

組合の指導は正しいことが必要である。不正なこと、不当なことを指導するならば組合の団結はやぶれ、組織は瓦壊してしまうのである。組合の統制力は納得以外に他に強制すべき力は存在しないのであり、それを指令であれば何でも強行しうると考えるとすれば労働組合の本質をしらないことも甚しいといわなければならない。

組合が警察の介入について文書の整理することや、出頭拒否を検討することはもとよりありうることである。しかし、いかなる事件についてもそれを指導するかといえばそうではない。不当な介入でないならばもとより警察にも協力するであろう。しかし、組織破壊を狙つて来た介入に対しては、労働組合以外の誰であつても、自己の存在をまもるために自衛手段をとることは当然である。国家権力のやることは誤はない。何でもしたがうべきであるというのは封建制下のイデオロギーであり、これを新憲法下において強要すべきでないことはいうまでもない。

現に全林野労働組合秋田地方本部においても能代分会の某事件については能代署に出頭して事情を説明している。それは警察が事情を素直にきくという態度があつたからである。労働組合は犯罪団体ではない。捜査官憲に対してどんなことでも不協力であるわけではない。また捜査官憲に抵抗すれば不利益なことももとより承知している。それをあえて協力しないことは、今回の介入の仕方に対して激しい憤りがあるからである。

かりに、組合が捜査に協力しないことを指導していたとしても被告人ら三名の組合における指導力は強大ではない。紀国は秋田地本の一執行委員、渡辺は合川分会の執行委員、福田にいたつては、組合の役員ですらない。その人が組合運動に復帰したからといつてどれだけ組合の指導力が強化されるであろうか。三人がいなくとも組合は立派に運営されている。それを三名が復帰することが、あたかも組合の組織力を大きく変えるかの如くに論ずるのは実状にそわないことも甚しい。

全逓東京中央郵便局事件の勾留却下に対する検察官の準抗告申立に対して東京地裁刑事第四部が昭和三十三年六月二日に、同刑事第九部が同月六日になした準抗告棄却の申立の理由を熟読していただきたい。そこには労働組合の組織力に対する正しい評価がある。組合役員である被疑者の統率力も労組幹部の組合員に対する出頭拒否、黙秘権行使の指導も被疑者の罪証隠滅のおそれがある影響をおよぼさないことをはつきりと判断している。

八、本件において検察官は被告人らを勾留して取調をなし、相当広汎な証拠をあつめ、ことに被害者といわれる有力な証拠を有している。それらにもとずく確信からして起訴をしたものであろう。このような段階にいたつてなお罪証隠滅のおそれがあるとはとうてい考えられないことは以上述べて来たとおりである。裁判所がなおかつ証拠隠滅の疑があるというためには他に積極的な事実が必要なのである。裁判所は原決定を取消し、被告人ら三名をただちに釈放する事を要求する。

(以下略)

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